尖閣問題についての私見
広田弘毅について
昭和11年~12年にかけての日本の総理大臣に広田弘毅と言う方がおられました。
外交官から長く外相を務め、英国での駐在経験もあり、国際感覚に優れた人でした。日本は隣国とは決して争いを起こしてはいけないと説き、中でも中国とロシアとの関係を重視しました。中国に対する日本の高圧的な態度(例えば第一世界大戦後の対華21ケ条の要求など)を諫めて、中国との良好な関係を作ることが日本の利益になると考えていました。
彼の政策の中心となる7大国策の中には1番目の「国防の充実」の次に「教育の刷新改善」があり義務教育を現行の6年から8年に延ばし、教育の充実を図りました。また、それとは別に「文化勲章」を天皇陛下に働きかけて、制定したのも広田総理の仕事でした。
辞職後は再び外相として、中国における「盧溝橋事件」の収束を図るも、もはや軍部の暴走は止められなく、何よりも民衆の好戦意欲が高まり、やがて日本は泥沼の戦争へと突き進んで行きました。戦争中の昭和19年には、既にこの戦争に勝てぬことを分かっていて、ソ連との和平のための接触を図るも成功せず、次ぐ、20年にも再び交渉の機会を得ようと努力するも、既にソ連は参戦の意思を固めていて、和平の努力は実を結びませんでした。
戦後、アメリカによる極東裁判において、唯一の文官(非軍人)として起訴されました。戦争突入時に外相を経験していたということです。しかしながら、広田弘毅に戦争責任は無いのは明白でありながら、彼は一言も弁解することなく、死刑を受け入れました。多くの人は弁解をすれば彼は無実かあるいは刑の減免を受けられたと言います。彼は「文官」からも責任を取る人が必要だと言い、甘んじて死刑を受け入れました。
あの戦争から67年。あの戦争の為に未だに隣国との争いが絶えません。しかしながら、あの当時と同じく、世論はすぐに憤りから好戦的になります。あの戦争も領土問題から起こった戦争です。中国や韓国と争うのではなく、堂々と外交交渉によって答えを導く努力を怠ると、結局はあの時の二の舞になるだけです。地方議員の尖閣上陸を喝采している今の日本の人々を見て、もし広田弘毅が生きていたら、なんと思うでしょう。